2014年3月26日水曜日

父との別れ


丁度お彼岸の時期、という、タイミングでした。



こういうことをブログに記録するのは賛否両論あるかとは思いますが、父は生前ずっとボーイスカウトに所属し、県連盟の団委員長として奉仕活動に関わり、公人のような立ち位置だったので、記録も兼ねて記載させて頂きます。
締め切りの前日、父が他界しました。
享年63才でした。
2年前、最初の癌が見つかったのが始まりでした。
大学病院での10数時間におよぶ全摘手術の間、当時本誌での連載原稿を抱えていた私は、控室に画材一式を抱え込み、原稿を描いていた記憶があります。
その後一旦は回復。
しかし昨年7月に肝臓、その後リンパ節への転移が見つかり、その段階ではとても小さな腫瘍だったものの、年齢的にがん細胞の勢いがすさまじく、10月に余命1年弱との告知を受けました。
薬品関係の仕事をしていたためこの状態での転移=完治はない、という知識のあった父に、余命は告げないという判断をし、家族全員であと2〜3年は大丈夫、という嘘をつき続けるということに決めました。
実際、一度は抗がん剤の効果もあり、腫瘍も小さくなりました。
11月に一族+犬という大所帯で、本人が大好物だった蟹を食べに山陰旅行をしたのも、この流れからでした。
しかし年明け、2月頃から状態は悪化。
予定していた抗がん剤投与が、体力の消耗が激しいことから見送りとなり、その後は恐ろしいほどの勢いでがん細胞が増殖。
3月9日に、大学病院での治療不可、転院、余命1〜2ヶ月との宣告。
12日に、緩和ケアを引き受けてくれた地元の市民病院に転院。
でも本人には余命のことは言わず、緩和治療で痛みが取れ次第大学病院に戻るとの説明。
なので父は、おそらく意識がなくなる直前まで、あと1〜2年ぐらいは現状維持だと思っていたと思います。
その後19日に、普通に友人たちからの見舞を受けるまでは意識があり、一段落した後急変。
親族全員が揃った中、旅立ちました。
夕方突然、呼吸がおかしいとの危篤の連絡を受けたとき、私はアシさんと修羅場まっただ中だったのですが、すべてを放り出し病院に向かい、私が駆けつけるのを待っていたかのように、その1〜2分後のことでした。
小学5年生で入団してから、ボーイスカウトに人生を捧げた人でした。
母との馴れそめも、ボーイスカウトの指導者同士だったそうで、私も妹も幼い頃からボーイスカウトの中に放り込まれて育ちました。
その後私はインドアな職業に就きましたが、妹は父と一緒に指導者の道を歩みました。
父が生涯をかけてやろうとしたこと・・・世界ジャンボリーの日本開催、それも山口県で!
その実現を来年夏に控え、そのためにこの10数年、日本中、世界中を飛び回って活動してきたため(私のフットワークの軽さは、間違いなく父譲りだと思います;;;)、それを見届けられないことが本当に心残りだと思います。
でもこれを期に、出産で指導者を引退していた妹が6月からの復帰を決めたので、父の意志は引き継がれていくことになりそうです。
葬儀は、30年以上一緒にボーイスカウト活動に携わっていた市長さんが(といっても、私にとっては物心ついたころから知ってる陽気なおじちゃんなのですが;;;) 代表として関わってくださり、長らくお世話になった光第2団、3団の皆様、そして全国からボーイスカウトの仲間が集まってのボーイスカウト葬で、100名近い隊員の敬礼に見送られての出棺。
これまで私は直接関与をしていませんでしたが、父の人脈、人徳はすごかったのだなと改めて感じました。
イナカの小さな斎場で、並べられる椅子の数にも制限がある状態でしたが、ご縁のあった方々に囲まれ、こうして無事父を見送ることができました。
今は、一旦放り出していた原稿も無事終了&入稿し、少しずつ元の生活に戻りつつあります。
しばらくはまだ、落ち着かない日々が続くとは思いますが、入院中、父が看護師さんたちに「娘は漫画家だ!」と自慢していたので(^^; 落ち着き次第、またすぐ次作に取りかかりたいと思います。
新刊を仏前に供えることが、当面の目標・・・かな?
長々とした日記にお付き合い下さり、ありがとうございました。
そして生前、父が関わりお世話になったすべての方々に、この場を借りてお礼申し上げますm(_ _)m